竹と笹がそよぐ星空を眺めて☆織姫と彦星の物語🎶

七月といえば、七夕。そこに大きく関わる笹や竹に今回は話を聞いてまいりました。
———————————————————-

古代の人々の間では、笹と竹は同じ仲間とみなされ、区別されていませんでした。

現代でも笹と竹は生物的な分類としては別のものですが、旧文部省が「葉を使う場合は『笹』太いところを使う場合は『竹』と呼んでよい」
と説明したため、「七夕飾り」としては、竹を使っても「笹の葉に飾りをつける」と表現してよいのです。

日本では、古くから私達、笹や竹を神聖なものとして大切に扱っていました。
tikurin
私たちは根強く、繁殖力ともに強く成長も早い。さらに、抗菌力もあります。
また、中が空洞のため道具に加工しやすく軽くてしなやかな性質を持ち、風にも折れにくい特徴を持っています。

この節と節の間が空洞ということは、人間にたいそう不思議なものにみえたらしく、
「木に竹をつぐ」ということわざがあるように、竹は他の樹木とは異質な存在となっていました。

そのため、「古事記」の天の岩戸の場面では天照大神を呼び寄せるために笹を持って天宇受賣命は踊り、
9世紀後半の成立とされる「竹取物語」では、竹取の翁がかぐや姫をみつけるのは竹の中であり、翁は金が詰まった竹を手に入れ裕福になります。

現代では、竹というと孟宗竹のような、幹の直径が20cmはありそうですが、そういう種族が日本に伝わったのは17~18世紀頃で、
それより前の竹はもっと細いものなので、かぐや姫は直径10cmほどの竹の中から現れたとても小さなものを想像なさってください。

『日本書紀』では、木花開耶姫が自身の産んだ子のへその緒を竹で切っていますし、
今でも笹の葉寿司や笹団子など、葉が活用されているほどですが、その清潔さを保つ性質も人には神聖でありがたいものだったのです

一方、七夕の物語は・・・。
13569971_1005292206250991_1112931160_o
これは、中国の後漢の時代に始まった、牽牛星と織女星の星祭の伝説と乞巧奠(きこうでん)という行事と、
日本古来の豊作を祈る神事「たなばた(棚機)」が合わさったものです。

牽牛星と織女星の星祭は、織姫と彦星が年に一度七月七日だけ会えるという恋の伝説をもとにしたもの。

乞巧奠は、「技芸をねがうまつり」という意味です。

織姫にあやかり、裁縫や手芸の上達を祈願するため女性たちが金や銀の針に陰陽五行説で「木・火・土・金・水」をあらわす
青・赤・黄・白・黒の五色の糸を通し、庭に祭壇を作り酒や果物と共に星に供えるものでした。

奈良時代にその中国の文化が伝わると、
宮中では、詩歌や裁縫の上達を願って星に祈りをささげ、梶の葉に和歌をしたため、お祀りするようになりました。

梶の葉の裏側は細くて滑らかな毛がたくさん生えているため墨の乗りがよく、紙の原料となる梶の木は神聖視されていて神事には欠かせないものだったためです。

宮中行事を伝承する京都の冷泉家では、いまでも古式ゆかしい七夕の歌会や乞巧奠がとり行われており、梶の葉が使われていて、
茶道の裏千家では、七夕の時季に「葉蓋のお点前」として、水差しの蓋として梶の葉を用いることがあります。
13423986_1022340927850688_1581001495674298181_n
その梶の葉に、七夕の時に天の川から里芋の葉に降りてきてたまった夜露を集めた水で墨をすり、
詩歌を書いたものが短冊の原形です。

そして、日本の「たなばた」は、お盆に関連した民族の間の風習でした。
豊穣の神様や先祖の魂をお迎えする前に、「棚機津女(たなばたつめ)」という集落の乙女が布を織ってお供えものにして、
神事が終わった後はケガレを水によって祓い清める行事です。

日本の棚機津女と中国の織女、日本の水辺の祭祀「たなばた」と中国の「七夕伝説」は似ているので、伝説が混じったのです。

他の国の七夕の行事では、笹竹は出てきませんが、地鎮祭の時に四隅に立てる忌竹やお正月の門松のように、

日本では、笹竹には神を迎える目印の性質や人々についた災厄を吸い取る依代の性質があると考えられていたので、
たなばた行事でも、笹竹に厄をひきとってもらい、水に流すという行為が行われました。

江戸時代、幕府は七夕を五節供の一つに定め、正式な行事として庶民の中でも七夕のお祭りが行われるようになりました。

この頃は、一般の手習いの普及とともに、習字の上達を短冊に書いて願う行事になったのです。

歌川広重の「名所江戸百景・市中繁栄七夕祭」や葛飾北斎の「富嶽百景・七夕の不二」に見ることができます。

江戸の町では、七月六日の夕方から、七夕竹を立てる風習があり、江戸の人たちは競うように、少しでも高く天に願いを届けようと、
高い竹にたくさんの夢を描いた短冊をくくりつけ、家内安全や大豊作などを願いました。

当時の江戸や大阪では、笹竹売りが「竹や、竹や」と売り歩き、各家では短冊を結んだ笹竹を軒や縁側に立て、天に願いが届くよう祈りました。

天明の大飢饉の際には、荒廃した世俗の世直しを目的に仙台藩では七夕祭りが盛大に行われ、人々の心の支えになりました。

そして、その後、一旦七夕はすたれたものの、第二次世界大戦後の昭和21年、空襲で焼け野原となった街に元気を取り戻したい、
美しいものを愛でるお祭りを再開したいという人々の願いで、五十二本の竹飾りがたてられ、仙台七夕は復活しました。

その翌年も昭和天皇巡幸の際、沿道に五千本の竹飾りを並べて大規模な「七夕祭り」が行われ、
今でも旧暦の七夕の期間に仙台七夕まつりは行われ、東北三大祭りと呼ばれるようになり現代も続いています。

また、日本で天に最も近い富士山が世界遺産として登録された現代、旧暦の七夕の時に各自の夢を書いたハンカチを持って
天に向かって願いを届ける富士夢祭りというイベントをしている人達もいます。

七夕は、日本の人々が天に願いを届けたい時、明るい気分をひきたてるいいきっかけになると、
私たち笹や竹も応援しています。

最後に、私たちが天から舞い降りる七夕の精霊から聞いた七夕伝説を紹介します。

天の川の岸に住む天帝の娘に、機織りが得意な姫君がいました。

天上界の扶桑という樹の葉を食べる蚕の糸をつむぎ、天の川ですすいだ糸を用いて神々の衣服のための美しい布を織る名手でした。

この布は、織ってすぐは空に広げて干すのですが、その間は雲や霧や霞のとなって地上に潤いをもたらす重要なものなのです。

この織物のお陰で、下界には水の恵みがもたらされていました。

ところが、織姫を彦星という農耕をつかさどる牛を世話する若者と結婚したところ、
姫も彦星も恋に夢中になり仕事を忘れてしまいました。

天界のものが一日でも仕事をしなかったら、地上では干魃や災害が起きてしまうので、
慌てた織姫の父、天帝は二人を引き離し、七月七日に雨が降っていない時だけ会えるように魔法をかけてしまいました。

そのため、今でも七夕の日を織姫と彦星は心待ちにして毎日働いています。

織姫の織った布は、日の光を当てると五色の氣がたちのぼり、塵もつかないもので、衣にすると雨雪にも濡れず、まとう神々は熱さ寒さを感じずにずむ心地よいものです。

竹取物語のかぐや姫が月に帰る際に天人から羽織らされたり、天女が下界で水浴びをする時に脱ぐ天の羽衣もこの織物です。

天の羽衣は、織姫が彦星を思う時、朝焼けや夕焼けの雲や彩雲となり、見た人に幸せをもたらすような美しい姿を見せてくれます。

その美しい空模様を見ると、彦星も元氣づけられ、自分もまた地上の豊穣のための様々な仕事に励みます。

そうして織姫と彦星はお互いに空と地上の美しく変化していく様子をみることで、恋人が自分を想い浮かべて元気でいることを確かめあい、七夕以外の毎日をすごしているのです。

<主要参考資料>
古事記・日本書紀のすべてがわかる本 多田 元 監修 ナツメ社
万葉の樹木さんぽ 井上俊 羽衣出版
神話の森 イザナキ・イザナミから羽衣の天女まで 山本節 大修館書店
星と伝説 野尻 抱影 偕成社
家族で楽しむ子どものお祝いごとと季節の行事 新谷尚紀 監修 日本文芸社
新版・竹取物語―現代語訳付き 室伏 信助 (翻訳) 角川ソフィア文庫
仙台七夕と盆まつり その由来と伝承 工藤雄一郎 宝文堂出版

七夕: http://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%83%E5%A4%95&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&biw=1024&bih=552&prmd=ivnse&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=K2IJTojhA-XymAX-8bWYAQ&ved=0CGAQsAQ

画像提供 小田奈緒子氏

紫陽花―雨の中を鮮やかに生きる「永遠の美女」―

梅雨の時期、濡れてくすんだ街並みの中、鮮やかな色合いを灯してくれる紫陽花。
筆者は、欝々とした季節に彼女達に毎年 心を救われる思いでいます。そんな紫陽花を詠んだ印象的な短歌を、いくつか挙げさせていただきます。

紫陽花の その水いろの かなしみの 滴るゆふべ 蜩(かなかな)のなく 若山牧水
あぢさゐの 花をおほひて降る雨の 花のめぐりは ほの明かりすも 上田三四二
美しき 球の透視を ゆめむべく あぢさゐの花 あまた咲きたり 葛原妙子
2014-07-09 11.10.07
牧水の世界は、蜩の声の聞こえる夕方、涙を流すような切ない抒情をたたえる花として描いています。
上田三四二の歌は、雨に包まれた世界に花の周りに明かりがさすような存在としての花。
葛原妙子は、特有の球形と、色彩が変化するという不思議さから、神秘的な水晶珠のようにこの花をとらえています。

そんなさまざまな美しさをもつ紫陽花に、今月は話を聞かせていただきました。

「私の学名、ハイドランジアは「水の器」という意味です。
また、人間たちが花と呼びがちな色の付いた部分は「萼」で花びらではありません。花は萼に囲まれた小さな点のような部分です。
水はけのよい土が居心地がいいのですが、どんよりとした空や雨の中で寂しく暗い気持ちになりがちな季節に、
人間達の気分を引き立てたいと思い立ち、添えて咲くようになりました。

今日、世界中に広まっている紫陽花の元、ガクアジサイは日本が原種なのですが、近代以前、私たちはあまり日本ではもてはやされておりませんでした。

それが、江戸時代後期からヨーロッパに渡り品種改良されて、「東洋のバラ」と称されるような
華やかな姿になり、日本に逆輸入されるという稀有な運命をたどりました。

私たちはヨーロッパの多くの国では、「オルタンシア(Hortensia)」という名で呼ばれています。
この名は、フランスの学者フィリベール・コメルソンが、自分の意中の高貴な婦人オルタンス(Hortense)の名前を植物名らしく変形させたのが始まりです。

当時のフランス上流階級ではその名前が流行していたため、その名のモデルとなった女性は特定できていません。

気品高い美貌で知られたグレース・ケリーも私達を非常に愛してくれる人でした。
彼女は人気絶頂の最中、女優業から引退しモナコ公妃となり、自動車に乗ったまま死を迎えるという劇的な人生を送りました。

今回は日本で、私と同じく「聡明でありながら波乱万丈な運命を背負った永遠の美女の系譜」の一族の話をお聞かせします。
2014-07-09 10.57.50
幕末、長崎出島にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトという方がいらっしゃいました。
オランダ商館に医師兼自然調査官として、派遣されて来た人です。

彼の目的は、鎖国時代の日本に関する情報収集でした

彼は名門の家系のドイツ人貴族でしたが、オランダ人を装って東インド会社の日本駐在員となったのです。
医学以外にも、動物学、地理学、民族学など広範な知識をもつ方です。

決闘をするような貴族らしいプライドが高い方でしたが、周囲の人に好かれる魅力的な男性でした。
普通の外国人はオランダ商館から出られぬところを、例外的に病人の往診や薬用植物採取の為に長崎市中への立ち入りを許可されました。

そこで、長崎の商家で小間使いをしていた十七歳の楠本滝という美しい女性と出逢い結婚の意思をもちます。

当時、遊女以外の女性は出島への出入りを禁じられていたため、お滝さんは丸山の遊郭「引田屋」の遊女という契約をして
「其扇」(そのぎ)という名になり出島に入り、シーボルトと共に暮らすようになります。

年下で、ヨーロッパ人から見るとより若くかわいらしく見える日本人のお滝さんをシーボルトはとても大切にしました。
そのことは、彼が1823年11月15日に書いた伯父と母親へ宛てた手紙に
「愛くるしい16歳の 日本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」

と書き送ったことに示されています。

ヨーロッパ出身のシーボルトは、お滝さんという発音は難しく、また、長崎の方言では「お滝さん」の「キ」が無声化して「オタッサン」
に近い聞こえ方だったため、「オタクサン」「オタクサ」と呼んでらっしゃいました。

彼は自著「日本植物誌」で、柔らかな淡い紫の手毬型の紫陽花にその名、「otaksa(オタクサ)」と書き、西洋に紹介したのでございました。

結婚の翌年、シーボルトは出島外に「鳴滝塾」を開くことを許され、日本を支える多数の秀才がここで西洋医学を学びました。
そして1827年、二人の間にイネという女の子が生まれました。

鎖国中の当時、異国の方との間に生まれた子ども達に世間は冷たく、養子に出されたり短命の者が多かったそうですが、
イネの場合は出島のオランダ屋敷に住み、幼い日々を両親のもとで暮らすことができました。

イネに関して、興味深い記録が役人さんの日記「唐人番倉田氏日記」の同年7月9日分に見られます。

「出島に居住している遊女そのぎが女子を出産したが、乳の出が悪いので、乳の出る遊女を出島へ入れるよう通事に相談した。
しかし、通事は前例がないので、町年寄に申し上げた。その結果、乳の出る女性を遊女の振りをして出島へ入れることになった。」
と書かれているそうです。

娘として大切に育てているシーボルトの心がうかがえ、しかもこのご夫婦の国の掟をくぐり抜けてでも自分の願いを叶えたいという性質が現れています。

そして、植物を始め日本のものの写生を頼んでいた画師、川原 慶賀に家族の風景を描いてもらったり、
慶賀が下絵を描いた滝とイネの肖像画が表裏に長崎特産の螺鈿細工で表されている香入れを作ったりしました。

これらの品は今、シーボルト記念館に所蔵され、香入れは「黒漆青貝細工張シーボルト妻子像盒子」と呼ばれています。

香入れは直径11cmほどの小さなものですが、滝とイネの着る紫色の着物にはシーボルト家の「メスを持った手」を表している家紋があります。
家族の一員として結ばれたい思いでデザインした着物でした。

しかし、日本での家族の幸せな日々は、突然終わってしまいます。
1828年、任期を終えたシーボルトが帰国の準備中、乗船予定の船が台風で大破し、
積み荷から日本地図等の持ち出し禁止の品が発見され、諜報活動の容疑で捕らえられる事件が起きたのです。

いわゆる「シーボルト事件」です。
この取り調べの結果、シーボルトは国外追放処分となります。

お滝さんも尋問を受けましたが、気丈にシーボルトの不利益になるようなことは一言も言わなかったため、
奉行を美しい女だが度胸のすわったものだと感心したと感心させました。

シーボルトは日本追放の時、生家の紋章と「たき、いね」と妻娘の名が刻んだマリア観音像を
庭の柿の木を使って手作りで二体刻み、ひとつを妻にたくし、ひとつを自分用に持ち帰っています。

その像は、神奈川県大磯町にある故・澤田美喜女史の記念館・「隠れキリシタン資料館」に所蔵されています。

シーボルトは残された瀧とイネを思い、弟子の二宮啓作らに二人を託し十分な生活費を置いて、
弟子たちにお滝さんとイネの世話を頼み、元の国へ旅立ちました。

けれど、ヨーロッパに帰ってからもシーボルトはこの母と娘を忘れることはなく、
日本から彼を慕う人達が送ってきた、滝とイネの姿が描いてある香入や二人の髪の毛を手離しませんでした。

そして、帰国後もシーボルトとお滝は手紙のやり取りをしました。そこには、

シーボルトが「ニチニチ、ワタクシカ、オマエ、マタ、オイ子(ネ)ノ、ナヲシバシバイウ」と送れば
お滝も「お前様の御きげんよく御くらしなされ候事、かみかけ、いのりまいらせ候」などと返事をしたためてあり、お互いに気遣い合う様子がうかがえます。

また、シーボルトはお滝とイネにオランダ語の入門書などを贈ったりしました。
鎖国中であった当時、海外からの品物が個人に送られてくるというのは大変貴重なことでした。

けれど年月が経つと次第に二人も連絡を取りにくくなり、所帯を持てという周りの勧めに逆らえず、シーボルトも滝も別の人と結婚することになります。

そんな中、二人の娘、イネは成長して色白で彫の深いすらりとした容姿、聡明で向学心に富み、勝気な性格の女性となり
日本人初の西洋医学を学んだ女性産科医になります。

イネはオランダ語を村田蔵六(大村益次郎)から学び、宇和島藩主伊達宗城から厚遇されたり
福沢諭吉の妻との縁で宮内省御用掛となるなど、医師としてかなりの成功を治めます。

ところが、仕事の上では成功したものの、彼女は妻子ある師、石井宗謙に犯され身ごもってしまいます。

その女児が高子です。
彼女も、著名な漫画家、松本零士氏が『銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルにしたとほどの美貌をもつ女性でした。

「永遠の理想の美女」として細面で切れ長の涼しい目元の女性を描き続けていた松本氏は、
楠本高子の写真を見た瞬間に「私が描き続けてきたのはまさにこの女性だ、と大変な衝撃を受け写真に見入ってしまった」そうです。

松本氏の父は高子と同じ大洲市出身で、家に伝わる古い写真や言い伝えなどから高子の縁のある家に松本氏は生まれた人でした。
そのことから、祖先から受け継いだ記憶がメーテルとなって蘇ったと、松本零士氏は語っています。

その高子もまた医師を目指しますが、男性の医師に無理に犯されて身籠ってしまったため、
医学を断念し、彼女を理解してくれる男性と結婚し、主婦となります。
が、高子の夫は病気で亡くなってしまい、シーボルトの血筋の伯父の世話になりながら芸事を教えて暮らす生涯を送りました。

高子もイネも、シーボルトから受け継いだ西洋人の血と日本人離れした美貌が災いして、
心ない人間たちの好奇と欲望の的にされてしまうという悲しい運命を背負ってしまいました。

そんな中、時代は動き、外国からの血をひく彼女達にまた転機が訪れました。

日本が開国を迎えるのです。

黒船来航前、シーボルトは、アメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、
「早急な対処(軍事)を行わないように要請する」という行動に出て、日本が欧米列強国に軍事攻撃を受けないようにしました。
ヨーロッパ帰国後も、彼は日本に置いて来た妻子や弟子たち、日本の文化を愛し守りたいと考えていたためです。

そして、1858年、日蘭修好通商条約締結を契機にシーボルトの追放が解けて
長崎で滝とイネ、高子の三人はシーボルトと約30年ぶりの再会を果たします。

シーボルトはヨーロッパで結婚し、イネの異母兄弟となる少年を連れてきていましたが、

日本の妻子や孫にすぐに会いたいと希望し、滝と稲、高子と出島の商館長部屋で邂逅するのです。

シーボルトは、肌身離さず持っていたというお滝、イネの肖像のある香入れや二人の髪の毛を見せながら、
「どんな日も決してお前たちの事を忘れた日はなかった」
と言い、時代に翻弄されながらも生き延びられ、家族で再会できたことの嬉しさに涙を流しました。

また、シーボルトは滝・いね母子の後見を頼んだ弟子と再会した時も妻子の養育で大変世話になった、と、
手をとり涙を流して感謝をしました。

お滝、イネ、高子と三代続いた美女の生涯は、当時の通常の女性の幸せからはかけ離れたものでした。

けれど、彼女達は、シーボルトが著した「オタクサ」という紫陽花の一種や漫画の中の「永遠の美女」として
日本人の心の中で永遠に生き続けていきます。

彼女達は、雨に打たれ続けてもほんのりと明るく鮮やかに生きる私たち紫陽花に共通する美の存在であると思えてならないのです。

2014-07-09 10.43.02

<写真>
樹木医みずほ 岩手県一関市アジサイ園

<参考文献>

「日本植物誌」ーシーボルト「フローラ・ヤポニカ」ー 木村陽二郎・大場秀章 解説 八坂書房
「シーボルトの日本報告」 栗原福也 編訳 平凡社
「シーボルト 日本の植物に賭けた生涯」 石山禎一 里文出版
「ふぉん・しいほるとの娘〈上〉〈下〉 」 吉村 昭   新潮文庫
「アジサイの世界 その魅力と楽しみ方」 日本アジサイ協会、鎌倉アジサイ同好会 家の光協会
「日本のアジサイ図鑑」川原田邦彦/三上常夫/若林芳樹 柏書房

王朝の雅ー藤原氏の栄華の象徴としての藤

京の都で王朝の雅の中心となった藤についてお話しします。

deltaworks-1432_792x528

現代の庭園で藤が鑑賞される場合、藤棚が一般的ですが、近世より前は絵巻物で見られるように、
藤は松に絡みつく形で多く植えられておりました。
松は長寿で緑を絶やさない縁起の良い樹ですが、鑑賞できる花がありません。
そこに柔らかな薄紫の藤の花が寄り添い、風にたなびくと、美しく華やかになるので人気がありました。

平安時代には、藤原氏の象徴を「藤」、皇室の象徴と「松」とする共通認識がありました。

藤波は 君が千歳の松にこそ かけて久しく 見るべかりけれ (金葉集 賀 326)
(訳)藤の花は 千歳生き続ける松(その松のように続く天皇家)にかかってこそ 幾久しく見られるのでしょう

この歌は、宮中の庭園の風景を描きつつ藤原氏が皇室に密接に関わっていることを詠み、藤原氏の末永い繁栄を祈る賀の歌です。

藤原氏の繁栄は、娘たちを皇室に嫁がせ婚姻関係を作ったことが最大の要因となっています。
そのため、藤と松とをセットにして、常套的に藤原氏の繁栄を寿ぐ賀の歌はたくさん詠まれています。

美しく教養高い藤原出身の貴婦人たちは、しっかりと皇室に一体化して親族を支える存在でした。
王朝文学の中の双璧といえば、『源氏物語』と『枕草子』と言えましょう。

まず『源氏物語』にまつわる藤。

藤原氏の支えにより『源氏物語』は成立しましたが、物語の背景にも藤は関わっておりました。

平安中期、宮中の帝のいる清涼殿の隣りに飛香舎という帝の妃用の局がありました。
庭に藤が植えられていることから「藤壺」とも呼ばれています。

紫式部の女房名は「藤式部」といいます。

そして紫式部の仕えた中宮彰子様は、飛香舎に局を持つ「藤壺女御」と呼ばれていらっしゃいました。
彰子さまが住んで以来、そして彼女移行、藤壷には、次々と藤原家出身の后妃が住まわれました。

彰子さまは、一条天皇の皇子敦康親王を 定子様亡きあと藤壺で同居して養育されました。
つまり次期天皇となる方が住むほどの格の高いお部屋でございます

『源氏物語』では、核となる場面に美しい藤が登場します。

物語の中で、光源氏の君の父帝の最愛の妻「藤壺女御」は、物語の中で一貫して源氏が面影を求め続ける高貴で美しい比類なき女性です。
現実世界では彰子様の通称だった名前が、彰子様に仕えた女房の作品で、もっともすばらしい女性の呼び名となっているのです。

また、光源氏の一人娘、明石姫君は天皇の母となり最高の幸せを極める女人ですが、作中で藤の花に例えられます。

他にも「蓬生」巻での源氏と末摘花の再会の場、「花宴」」朧月夜の君と源氏の再会は、藤の宴の夜。
「藤裏葉」巻では夕霧との結婚を許される雲居雁は、作中歌に「藤の花」と表現されます。

次に、『枕草子』での藤を紹介します。

まず、「めでたきもの」という素晴らしいものを書き連ねていく項では、
「色あひ深く花房長く咲きたる藤の花、松にかかりたる(訳)色合い深く、花房が長く咲いている藤の花が松にかかっている景色

と出てきています。他にも花として 「藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし」や「あてなる(上品な)もの」と紹介されています。

このように、藤原氏の栄華の元で成立した王朝文学には、藤が大きく関わっていたのです。

文:櫻川あまね

deltaworks-4180023_576x432

☆おまけコラム:フジ
フジはマメ科のフジ属に属するつる性植物。日あたりを好み、日本の山野に良く自生しています。多くはヤマフジと野田フジの2種類ですが、香りが強いのはヤマフジ。野田フジは大阪市福島区野田で発見されたものに、牧野富太郎先生が命名したもの。
面白いのは同じ藤ですが撒き方が右巻きと左巻きと逆になっているところ。
上から見てノダフジは右巻き、ヤマフジは左巻き。好き勝手にまいているのではなく規則的なんですね。
そしてフジはマメ科ですから、根の根粒菌が空中の窒素を固定して栄養分を作ることができる特殊な能力を備えています。やせ地でも土壌を肥やしながら生育することができるのです。あまねさんの文を読んでなるほど、文化的にも植物学的にもマツとの相性がいいのがわかりました。マツも根に共生菌を持つ種類ですが、お互いにやせ地でも全然平気。それどころかどんどん土地を豊かに変えていく力があるのです。まるで藤原氏みたいですね。
爽やかな青空を背景に、美しい小花がつらなり風に揺れる様を見ると、思いは遥か彼方、どこへでも連れて行ってくれる。日本の美しい花々の持つたくさんのメッセージに今回もうっとりしました。
文:樹木医みずほ

 

 

写真:山田の藤(フリー画像サイトより)
熊本県玉名市山田日吉神社の境内にあることから「山田の藤」と呼ばれ、県指定の天然記念物に指定されています。
境内にある藤は、推定樹齢200年、東西12メートル、南北10メートルにもおよび、1メートル以上にもなる花房があたりに芳香を漂わせます。
この藤は、学徳をもって知られた地元の赤松九衛門が文化年間、神社に献納植栽したものと伝えられております。
熊本地震での被災に心よりお見舞い申し上げます。

 

桜-生きる喜びを春に伝える樹

SONY DSC
SONY DSC

 

幼い頃、祖父に手を引かれ、風にたなびく濃紅色の大きな枝垂れ桜を見たことがあります。
普段 見慣れたソメイヨシノと違う樹形なので、ふしぎと印象に残っておりました。それが私と三春の滝桜との出会いでした。

ここに、福島出身である私の母が撮ったその桜の写真があります。今回は、この気品高い滝桜にお話をうかがってみました。

お久しぶりです、と語り掛けると、

「お帰りなさい。福島の血筋のお子。あなたのことは覚えております。今は「桜」のつくお家に嫁がれたのですね。」

とお返事をくださいました。そして、古くからの記憶、桜達の訴えたいことを話し始めてくださいました。

「私は千年を超える昔からこの東北の地を見守って参りました。土地の主のようなものです。

私達 桜の名は、「さ」は稲の精霊 「くら」は神が座する場所という意味から成り立っています。
春の訪れとともに、穀物の精霊が舞い降りる場所といわれており、人々に慕われる存在で、私も、この地の人々を愛しております。

この国には、イザナギ様とイザナミ様は高天原から地上に橋を渡っていらしたという伝承があります。

柳田國男という学者さんがしだれ桜について
「神霊が樹に依ること、大空を行くものが地上に降り来らんとするには、特に枝の垂れたる樹を択むであらう」と書いてらしたように、
私の枝は天と地をつなぐ形。

そこで、神々が天から降り立ち人間と交流しやすいと大切にされ、藩主様の御用木として保護されておりました。
長きにわたり、この東北の人々と苦楽を共にしております。

豊作の際には喜び、また、飢饉や災害のたびに人々の心の悲鳴を聴き、他の草木に呼びかけ、共に人々を助け生きてまいりました。

悲しい出来事といえば、大地震と津波が百年に一度起き その度にひどい被害が出ることに、私たち植物も心を痛めておりました。

平成二十三年三月十一日の東日本大震災も、二万人余りの死者及び行方不明者を出す大災害となってしまいました。

この時、宮古市では、明治三陸大津波と昭和三陸地震による津波で二度にわたって集落全滅に近い被害が生じた経験から、

「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、此処より下に家を建てるな」

と刻んだ災害記念碑を人間達が建立し、その地の子孫は教えを守り、坂の上に住宅を建てて生活していたため、
集落内にいた方は助かることができました。

他の地域でも津波の到達点に石碑が建てられたところがありましたが、
そちらは残念ながら時が経つにつれ 石碑の存在と共に津波の記憶も忘れ去られ、大きな被害が出てしまいました。

けれど、そこで、大津波の被害を防ぐ対策が必要と立ち上がった方々がいらっしゃいました。
「さくら並木プロジェクト」という名前の取り組みが同じ年の十一月に始まったのです。

私たち桜は、千年前の勅撰和歌集に、「桜の花の散るをよめる」と記した上で、

久方の 光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ ―古今和歌集 春歌下 八十四番   紀友則―
(こんなに日の光がのどかにさしている春の日に、なぜ桜の花は 落ち着かなげに散っているのだろうか)

と詠まれたように、日本の人々にとって「咲くのはいつか、散るのはいつか」と毎年 気がかりに思われる存在で、忘れられることはありません。

春になると私たちが咲くのを人々は心待ちにしています。

満開の桜も楽しみにされておりますが、私たちが散る時、
花びらは、空にあっては はらはらと舞い風の形となり、水に降りてはくるくると水の流れの形に動いて見る人の心をとらえることができます。

そこで、将来の大津波の際に避難の目標として 住民の方々を守る役割となれることを私たちは願いました。

その気持ちが届いた人々が今回の津波到達した地に わが一族の並木道を作り、忘れられないようにしてくださった企画です。

また、東日本大震災の犠牲者の鎮魂のため『二度と散らないねがい桜プロジェクト』という企画が、
NPO法人きものを着る習慣をつくる協議会という方達により立ち上がりました。

この震災の被害者の御霊を慰めるため、桜をかたどったつるし飾りを作って 陸前高田市の古刹「普門寺本堂」に飾る計画です。

惜しくも亡くなられた全ての方の数だけ、日本の美の象徴の形に着物のはぎれを縫い、お寺に祀ることでご供養してくださろうと行動してくれているのです。
しかも、被災地の女性達に手仕事で作っていただくので、その方達が収入の手段も得られるという素晴らしい計画です。

そこには、今後の災害では、大切な命が散ってはならないという祈りも込められています。

私たちは毎年咲き、散っていくことで人々の注意を呼び起こし、災害の記憶を忘れられないように努めます。
逆にまた、美しい作品のモデルとして菩提を弔うお手伝いをさせていただけることに 大きな喜びを感じております。

毎春、葉も落ちた姿から生き返ったかのように花咲き誇る私たちには強い春の生命力があります。

先ほどの古歌と同じ勅撰和歌集の中の、桜を詠む一連の内に、

春ごとに 花のさかりはありなめど 逢ひ見むことは 命なりけり ―古今和歌集巻春歌下  九十七番 よみ人しらず―
(春になる度に 必ず美しい花の盛りはあるに違いないけれど、 それに巡り会い見るのは私の命があってのことです)

という歌があります。春に必ず咲き誇る桜を愛でられる喜びを「生きる喜び」として表現した歌です。

「よみ人しらず」は「同種の歌を詠んだ人が多いため、作者が分からない流行歌」ということ、
それほどまでに桜を春に見られることは、昔から人々に喜びを与え続けていたのです。

生命の喜びを毎年 人間達に喚起する樹として、これからも私は生き続けていこうと考えております。」

語り終えると、滝桜は私の幼い日の記憶と変わらない荘厳な美しさで微笑み、
静かに春の温かい息吹を伝えてくれるのでした。

写真・文:櫻川あまね

 

宮古・姉吉地区 石碑の教え守る <河北新報>http://memory.ever.jp/tsunami/tsunami-taio_307.html
さくら並木プロジェクト http://sakuranamiki.jpn.org/cherry_project
きもの支援センター被災地の女性手仕事プロジェクト http://rikubrand.jimdo.com/
桜の文学史 小川和佑 文春新書
日本の名随筆 65 桜 竹西寛子 編 作品社
桜がなくなる日 生物の絶滅と多様性を考える 岩槻邦男 平凡社新書
桜が創った日本ーソメイヨシノ 起源への旅ー 佐藤俊樹 岩波新書
日本のたしなみ帖 桜 『現代用語の基礎知識』編集部 自由国民社

桃と「三」の深い関係。産み出す力を助けてくれるパートナー

梅についてのコラムを書き終わった数日後のことです。

「三月はぜひ私たちのことを書いてください」と、桃の精霊が私のところに訪れました。

momo

三月と言えば、ひな祭り。テーマにするには最適なのですが 、まだ桃の咲く時期ではありません。
このコラムは写真入りなので、桃の花の画像がないと格好がつかないのです。

そのことを桃に告げると、わが意を得たりとばかり、

「それこそが私たちの悩みなのです!「三」の「ミ」や「サン」という音と私たちは関係が深いので、
三の月の三の日に私たちの花が飾られなくなってきて、困っているのです」

と手元の巻物を見ながら説明し始めました。

「今でいうひな祭りは「上巳」という三世紀ごろの中国で水辺で禊や祓を行ない、宴会を催す
三月最初の巳の日に行われていた「上巳」という行事が、始まりです。

その行事は、時が経つにつれ、巳(ミ)と同じ音を含む三の日にするようになりました。

古代、中国から日本に陰陽思想が伝わってきました。

たとえば、陽が天や男性、陰が大地や女性であり、どちらかがより貴いという意味ではありません。
陰と陽が調和して初めて自然の秩序が保たれるという思想です。

その中では、「三は天地が合い万物を生む数」として伝わってきたのです。
現代でも三三九度や七五三といったお祝いごとにこの数が使われているのもそのせいです。」

そして陰陽思想で女性は陰とされるので、陽の数となる「三」の重なる日にお祝いすると
調和がとれ、女性の幸せや健康につながるものと考えられていたのです。

私も「三」の重用さは分かりましたが、桃を三月に飾らねばならない理由が分からず、問いかけてみました。
すると、また桃は語り始めてきました。

「日本で新年を立春と呼んでいた頃、節分は大晦日をさしていました。
大晦日の夜、鬼を祓い災いを除いて、新年を迎える宮中の行事が節分行事の始まりだったのです。

平安貴族の間では、陰陽道でいう陰(オン)が転じた「鬼」を追うためのその行事を追儺(ついな)と呼びました。

その追儺では、陽の氣を持つ桃の枝で作られた弓や杖が使われ、
お正月には私たち桃の木片で卯槌(うづち)というお守りが作られていたのです。

同じ頃、農村の人々の中では、3月の初めに海や山へ出て一日を過ごし身の穢れを洗い流す行事が行われていました。

田植えの始まりの時期、田の神を迎える為に、紙やわらで作った人形で体を撫でて穢れをそちらにうつし、
海や川、水(ミズ)に穢れを流して健やかな心身で 神を迎えることにしていたのです。

それの風習と中国伝来の「上巳」とが一体化して、「流し雛」という行事が三月に行われるようになりました。
それが、江戸時代初期に人形の制作技術が上がると、裕福な人々が豪華な人形を作り、飾るようになったのです。」

桃とひな祭りのつながりは少しわかりましたが、三との関わりはどうなのでしょう?と尋ねました。
すると、

「陰陽道で「万物を生み出す力」をもつ三の意味から、身分の高い人々の間でも春の節句は三月のものになりました。
私たち桃はその頃咲くので、人々は私たちを見ながらお祝いをするようになりました。」

「つまり、身分の上下に関わらず、穢れを祓う春の行事が交じり合った行事が行われるようになり、
陽が強い三月三日頃に かわいらしい女性を思わせる姿の桃花が咲くことから、「桃の節句」という女の子のお祝いをするようになったのです。
その人間達の意を喜び、私たちも努めて女性の健康や美しさを高めようと陽の力を放っておりました。」

「また、さらに時代をくだった3世紀前半の日本でも、桃の清めの力は信じられており2千個以上の桃の実が祭祀に使われたりしていました。

『古事記』でイザナミ様が黄泉の国でのイザナミ様を覗いたため、イザナミ様の怒りを買い、黄泉の女たちが追って来たお話はご存じですか?

その時、イザナミ様は竹の櫛を投げて筍、髪飾りを投げて山ぶどうにし、追手がそれらを食べて足止めさせたことがありました。

が、それらを食べ終わった後も黄泉のものが迫ってくるので、イザナミ様が三個の桃を投げたところ、

追手たちは桃の霊力におののき、食べることすらせず、退散するという場面が出てきます。

そして、「お前は私を助けたように、これからも葦原の中の国(地上世界)のすべての生ある人々が、憂い悩む時に助けてやってくれ。」と
イザナギ様は命じられ、私たちに「偉大な霊の力」という意味の「「オオカムヅミノミコト(意富加牟豆美命)」という神名を授けてくださいました。

それほど、古代の桃の実は強力な浄化の氣を放つ聖なる果物であり、神から人間を助けることを命じられた存在だったのです。

現代にも伝わる「桃太郎」のお話は、元は桃の実を食べて若返った老爺と老婆の間に桃太郎が生まれたという話が主流でした。
生命を授かれないと悩む方を身籠らせ「お産(サン)」しやすくなる力を 私たちはもっているのです。

なので、「万物を生み」と命を生み出す「産」の力をもつ「三」の数と、私たちはとても相性がよかったのです。」

それなのに、なぜ今のように他の花よりは飾られない存在になってしまったのですか?と私は問いました。すると答えは

「明治の代に欧米列強の植民地化を免れるために
近代化を推進し西洋の暦が導入されたところ、私たちの咲く時期と節句が合わなくなってしまったのです」

そのうえ、その時代に巖谷小波という人が「桃太郎」を『日本昔話』の中にまとめる際に、
従来と変わり、桃から男の子が生まれる話として国中に広めたので、桃は産みだす生命力を助けるという印象が薄まり、
ただのおとぎ話のことだと人間が思い始めてしまったのです。」

と次々に桃は嘆きながら説明してくれました。そこで、私が

「では、近代になってからは桃の「人間を助ける霊力」を使ったことはないのですか」

と聞きました。すると、桃は、いたずらっぽく微笑み、

「明治には美味な実がみのるよう変異し食べやすくなり、大正には、インスピレーションを人に与えて
西洋にひけをとらない芸術性を生み出す工夫をして、人間達と睦まじい関係でいられるよう動いてみました」

と得意気に答えました。

「まず、明治には、古代からいた種とは違う桃族を上海から入らせ、品種改良に協力して
世界に通じるおいしい白桃となり食べられることで、人々の中の穢れを出す役割を勤められるようにしました。

この際には、最初、水蜜桃で「ミツ」という三に通じる音が入ったものとして日本に参りました」

「そして、大正に入ってすぐ、「宝塚」にある学校に女性の魅力が発揮される日本独自の芸術性を産みだすのに力を貸したのです」

ということでした。水蜜桃は漱石の「三四郎」で知っておりましたが、宝塚歌劇団については初耳でした。
私が驚いて調べたところ、確かに宝塚音楽学校は、大正2 年(1913 年)7 月に「宝塚唱歌隊」として創立されていました。

そして、大正3年。
おとぎ話「桃太郎」をモチーフにした歌劇「ドンブラコ」が宝塚少女歌劇第1回公演で上演されたことを知りました。
10代の少女達が扮する桃太郎と家来たちが、鬼が島に向かう内容の歌劇です。桃によると、

「日本はこの時代、とにかく西洋に文化で見劣りしたくない人達と、今まで庶民が馴染んできた音楽と、
近世まで庶民が馴染んできた音楽や芸術を大切にするべきという人達とに
音楽の専門家たちは分かれ、議論が行われていました。

そこで、私たちは、そういった人々の両方が満足できるインスピレーションを著名な音楽家に与え、

西洋の楽器やオペレッタの要素を含みつつも馴染みやすい日本のおとぎ話、
しかも「流し雛のように川から流れてきても産みだす力をもった「桃」が扱われている作品」を発表することで、
陰の氣をもつ少女と陽の氣をもつ私たちが協力し合い、西洋の文化と日本の文化を調和させた美しい表現ができるということを証明したのです。」

とのことでした。「桃太郎」が歌劇になるという大胆な発想はそこからきたのか!と私は納得しました。

日本人が自分たちの伝統に外来の文化をどう取り入れるかを悩んでいた人達を救い、
新しいジャンルを生み出すことに桃は貢献したのです。

その後も、現在から20年ほど前までは、ひな祭りにはハウス栽培をしてでも人間達は桃の花を飾っていたのですが、
近年はそれすら少なくなったため、女性の悩み解決を助け、生命を生み出す力を引き出すように人々に協力したいのに、
春の節句に花が飾られるなくなってしまったので、威力を発揮しづらくなってしまったと桃は悲しげに言っていました。

桃たちと話した後、私は三月三日の日、江戸からの文化が残っていそうな雛飾りを催している街に出向いてみました。
すると、観光協会やホテルのロビーを見て回ったところ、桃の言っていることが本当だとわかりました。

様々なおひな様は華やかに飾られてい素敵なのに、桃の花の生花が置いていないのです。造花の桃の花はあるのですが、少し寂しい気がします。

ふと「産みだす力が必要な場所ならあるのではないか」と思いつき、川越近辺の産婦人科に問い合わせたところ、やはりロビーに飾られていました!

人間の中にも産む力が必要という時、桃がエネルギーを分けてくれると勘づいている人がいるようで、ほっとしました。

そして、自分でも花屋で桃の花を買い求め、家で活けてみました。

「桃さん達、もっと飾って欲しいと言っていることを人間達に伝えるので、これからもよろしくね。
私たちはあなた達が大好きで、苦しみから助けてくれたり生み出す力を引き出してくれることにとても感謝しています。」

話しかけると、ふっと桃花が微笑み返してくれたように見えました

<参考文献>
萩原浅男 鴻巣隼雄 校注「古事記上代歌謡」 小学館 1973年

山田永「からくり読み解き古事記」小学館 2006年
津金澤聰廣 近藤久美「近代日本の音楽文化とタカラヅカ」世界思想社 2006年
冷泉為人他「五節供の楽しみ 七草・雛祭・端午・七夕・重陽」淡交社 1996年

学問の神様、道真公と梅の友情

白梅に「今日湯島天神にいらしてください」と明け方の夢で誘われ、お詣りに行ってまいりました。

P1030525

ちょうどその日は1月25日。
鷽替え(うそかえ)という神事が行われていて、受験シーズンなでもあり、参拝客もたくさんいらっしゃいました。

この日に誘ってくれた梅は、と見回すと、本殿横の白梅のみ満開で、その樹が

「ようこそ、おささ召し上がれ」と微笑んでくださいましたので、出店で甘酒を買い、ベンチに座りその樹に話しかけました。

「鷽かえとはどういう行事なのでしょうか?無知で恐縮ですが本日初めて知りました」と問うと、

「人が知らずに使う「嘘」を、天神さまの「まこと」に替えていただき、正しい幸運を招くものです。
藤原時平様の「嘘」により大宰府に流された道真公は、死後に誠実さを認められた。
そのご経験から天神様となった道真公が、誠実な人々に故なくして降りかかった凶事を払いのけられるように天に訴えて 始まった行事です。」

という返答。道真公が怨霊となったため神として祀り祟りをしずめた説と、梅の語る道真公の人となりが重ならないので、

「道真公の死後、宮中に落雷があり被害が出たことや死去された方が多いのはなぜだったのでしょう?」

と更に問いかけました。すると、

「道真公は誠実で、世の中に災いを起こすことを厭われる方でした。
ご自身が言霊の達人であることを知っていたので、人として生きている間も呪いの言葉を口にしないよう気になさっておりました。

P1030529

帝が天を治める平和な世が続くよう 天に帰っても祈っていたのですが、道真公を慕う雷の精や不正を嫌う物たちが暴走してしまったのです。
それを道真さまはとても悲しみ、同じような不正が他の方に起きた時、早く解決されるようにとこの行事を神々に訴えられて始めました」

とのことでした。確かに、菅原道真公の作品で、誰かを責めるような詩や和歌を拝見したことがないと私も納得しました。そして、

「道真さまは梅を幼い頃から愛してらしたのですか?」と尋ねると、
「御歳5才の時、庭に咲く紅梅を見て

美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある (なんてかわいらしい 紅の色の梅の花 あこと呼ばれる僕の顔につけたいくらいです)

と、歌を詠みました。その頃にはもう私たちは彼の守りについていたのです。」

とのこと。「あこ」は古語でわが子を親しんで呼ぶ言葉。道真公は親御さんに愛されて育ち、花をめでる心をはぐくんだのだな、とまた私は納得しました。
続けて梅は、

「十一歳には、雪積もる月下の夜、

月燿如晴雪  月の輝くこと 晴れたる雪の如し
梅花似照星  梅花は 照れる星に似たり
可憐金鏡転  憐れむべし 金鏡転じ
庭上玉房馨  庭上に 玉房の香れることを

と得意の漢詩にて私たちの姿と香りを表現してくださいました。とても私たちは親しかったのです」

と教えてくれました。道真公と言えば、漢詩・漢文に長ずる学者として学問の神様となったことを私は思い出し、

「近年で道真公が漢文を深く理解していると思う文学者は誰でしょうか」

と尋ねると、梅は少し考えて

「夏目漱石です。この方は、こちらにお詣りにいらしたこともありました。
また、お賽銭として出された紙幣に、ご自身と同じく漱石さんの姿が印刷をされていたので、道真さまも驚かれていました」

と笑いながら伝えてくれました。
たしかに、漱石の自宅からも勤務先だった東京大学からも湯島天神は近いし、漢文に対する教養も深いと感心。
さらに、

「天神様となられてからも、道真さまは文学作品の研究をなされているのですか?
また、先ほど絵馬を含んだ本殿の写真を撮ろうとしたら日光が絵馬をなぞるように動いているので、
もしかしたら天神様が絵馬の内容をご覧になっているのでは?と思いついたのですが、いかがでしょうか」 と聞くと、

「はい。人間だったころ何よりも学問と秩序を尊ばれた方なので。もちろんご参拝の方々の絵馬も読まれてらっしゃいますよ」

と受験生の方々が喜ばれそうなことを教えてくれました。天神様のご利益はこのあたりから来ていそうです。

「最後に、かの有名な

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな
(春を告げる東風が吹いたならば、私へ香りを送っておくれ。梅の花よ。私という主がいないからといって、春を忘れるな)

という有名な和歌について、どんな風に思われますか?」

と質問すると、

「道真さまは私たちの姿もいとしんでくださいましたが、香りをさらに好んでらっしゃいました。
「お前たちのの香りは強く高貴で、都での思い出がよみがえる、香りだけでも幸せを感じさせてくれる」と太宰府でも話しかけてくださいました。

私たちは元々 中国から伝来したもの。道真さまの得意だった漢文もまた同じ。

ご自身のご提案で遣唐使を廃止された道真さまは、時代が中国をそのまま真似たものから、
中国からの学びを消化して独自の日本の文化として発展していく時に移り変わっていくことを感じていらっしゃいました。
ご自身の濡れ衣も辛いけれど時代の流れ、と受け入れてらっしゃいました。

けれどまた、ご自身の愛された私たち梅の美しさ、香りの素晴らしさは、ご自身が都から離れ、
時代が変わっても永遠にもてはやされるべき価値がある、変わらずに春を迎える幸せな存在であってほしいとお考えでいらっしゃいました。

その道真さまの思いに応えるべく、私たちも自ら清らかでいられるよう努めております。
でしゃばらず、けれど「永遠に変わらぬ高貴な美しき香りとして、素晴らしい記憶を思い起こさせる存在」であるように。

都にあっても山の中にあっても、私たちが咲いている間は誇り高く清らかな空間にそこをさせるように、意識しています。

香りと言うものは、人間にとって他の五感と違い、瞬時に記憶をよみがえらせる性質をもっております。
この香りが、人々にとって春を思い出させる喜ばしいものであるよう、私たち梅は願い続けております。」

とゆったりとお話しくださいました。
その道真公と梅の、人と植物という枠を超えた友情が「東風ふかば」の歌を生み出し、
人々の心を打つ名歌となった理由ではないかと私は感じました。

そしてまた、冤罪をこうむった道真公が梅と共に祀られ、学問に縁のある神として死後に高い評価を受けたことは
濡れ衣を着せられた人々や、今 辛い目に合っていてもいつか人生の春がまた来て幸せになれるという希望を
人々に与えられるので天神信仰が今なお人々を惹きつけるのではないかと感銘を受けました。

P1030526

希望の松

P1030173

年の瀬も押し迫ったある日、昭和記念公園を散歩していると松に話しかけられました。

「私たちはすべての人にとって身近で親しく、希望を与えていたいと意識しています。」

それを感じて日本の人々は新しい年を迎える祝いの時に門松を飾るのだと思います」
とのことでした。私は驚き、

「なぜ門松がお正月飾りだと知っているのですか?」

と聞き返すと、松たちは口々に

「私たち植物は、種族の先祖の記憶やお互いの情報を共有しているのです。」

「1000年ほど前、この国の貴族と言われた人々は、「小松引き」という正月初めの子の日に、長寿を祈り小さな松を引き抜く遊びをしていました。
今でも「根引きの松」と呼ぶ白い紙と金赤の飾りを掛けた根が付いたままの小松が飾られているところがあります。」と答えてくれました。好奇心をそそられ、さらに詳しく聞きたいと問いかけると、親切な松たちは、五葉松を紹介してくれました。
そこで、公園内の盆栽園にいる の松に会いに行きました。

すると五葉松は「源氏物語」の「初音」の巻に出てくる話が、もっとも自分たちらしい扱われ方として語り出してくれました。

「初音」の巻では、ちょうどお正月の子の日に光源氏の君が、天上のように美しい六条のお屋敷で、ご自身の夫人たちを訪れます。

明石からきた小さな姫君がいらっしゃる春のイメージで作られた御殿には、お庭先の築山の小松を女の童達が引いて遊んでいます。
身分が低いために姫君の実母でありながら離れて数年経つ明石のお方から、新春を祝うたくさんの贈り物が届いています。
その中に、素晴らしい五葉の松の枝に鴬がとまっている作りものに御歌が添えてありました。

「年月を松(待つ)にひかれて経る人に 今日鶯の初音きかせよ
(長い年月ご成長を待ち年を重ねている人(母)に、初のお便りを下さい)」

というところに「音せぬ里の」と音のない寂しい場所から送ったという言葉まで書きつけてあります。

寿ぐ言葉以外を避ける新年には、ふさわしくなく、聡明で情趣を解する明石の方らしくない歌です。
それだけ母としてのわが子と会いたい切実さが感じられます。

源氏の君と姫君の母上は、源氏が謀反の疑いをかけられ京を離れて 当時の流刑の地、須磨に自ら移り住んだ際に
不思議な縁に導かれるようにして、当時は地方とされていた明石の地で出会いました。

その明石にも今いる素晴らしい御殿にも同じように松が植えられています。
松は平安の昔から、地方にも宮中にもあり、庶民にも貴族にも等しく愛され、美しい物として尊ばれていました。

その馴染み深い松を希望として、わが子と触れ合いたい思いを明石の方が祈るような歌にして送ったのです。

それに対して、源氏の君も姫君ご自身からお返事を書かせます。

「ひき別れ年は経れども鴬の 巣立ちし松の根を忘れめや
(お別れして年はたちましたが、鶯(私)は巣立ちした松の根(母)を忘れましょうか。いや決して忘れません)」

たどたどしく幼心のままに詠んだ歌ですが、受け取った明石の上の喜びはひとしおでした。

「このように、物語で希望のよすがとして1000年の昔にも人間が想像して書いたように、

私たちは変わらぬ美しい物としてありつづけているよう心がけているのです」

と、五葉松は話を締めくくりました。

江戸時代の教養ある人は『源氏物語』をめでたい「初音」から学んでいったそうです。

徳川家光の長女千代姫様の婚礼調度の一つに「初音蒔絵調度」がいまでも残っていることを私も思いだしました。

思えば、阪神大震災の時も、須磨に松はいて、東関東大震災でも津波で流され無残になった

岩手県の海辺に、奇跡的に生き残った「希望の松」がいらっしゃいました。

「誇り高く、強く気高い松たち、私たちの味方でいてくれてありがとう。」

と、松たちに感謝の意を伝え、私は帰途につきました。